HEAVEN CAN'T WAIT
“雲をつかむような話だね”と私たちは言う。 馬鹿げた話、夢のような話、幼稚なおとぎ話。 だが、人間が空を飛ぶことが普通になってしまったこの世紀に、ジェット機の小さな窓から、冷えたガラスに額を押し当てて見下ろす、 豊かな起伏をもった雲の層は、それが水蒸気の塊であるという頭の中の知識をおしのけて、それを掴みたいという欲望を起こさせる。そして実際に機長のアナウンスが入り、シートベルトを締めて降下に入った機体のなかでがたがたと揺られながら、私たちはふわふわしていたはずの雲の中に飛び込み、自分がいままさに灰白色の水蒸気と氷の塊の中にいるという事実と、さっき見下ろしながら沸き上がった触感的な欲望とのギャップにとまどう。理論的に正しい認識と、その場にいることでしか生じないリアリティは、必ずしも一致しない。
八谷和彦の作品にはつねにそういう驚きがある。彼はアプリケーション・メールソフト"PostPet"の制作者であり、この作品にも顕著なように、コミュニケーションを主題のひとつとして活動しているメディア・アーティストだ。彼の最新作「Air Board β」(1999)は、全長220cm、一人乗り用の小さなホバーボード――直接のイメージは「Back to the Future 2」(1989)の宙に浮くスケート・ボード――である。あの映画のなかでマイケル・J・フォックスの体が浮いたとき、スクリーンのこちら側で観客が共有した憧れと昂揚感。これが、実際に八谷の足が浮いたボードにかかり、ふわりと浮くのを見る私たちのもとに、ふたたび訪れる。だが、このふたつの体験を分ける大きな違いは、頭の片隅で冷めた視点が指摘する、これはたんに「雲をつかむ話」――描かれた未来に過ぎないという認識を、Air Boardが破壊してしまうということだ。果たされそうもない未来が目の前で具現してしまったことへの驚き。最新特殊効果の「ほんとに浮いてるみたいな」世界から、「ほんとに浮いてる」世界への跳躍。
だが、この絶対的なリアリティは、たんにそれが浮いているという事実から来るのではない。この作品は、展示に加えて「起動実験」としてジェットエンジン点火の模様が公開された。この大きくはない作品が、破天荒な「音」と「熱」を発する物体であること知るのが、作品鑑賞だった。500平米の会場にしつらえられた22平方メートルほどの特殊不燃素材を使った舞台の上で、実際に間近で小さなマシンから発されたジェットエンジンのうなりが耳でなく体を包み――可聴音域を超えた高音が体にまとわりつく――十数秒の点火だけで、広い会場の体感温度がみるみる高くなる、という体験。20世紀の発明、ジェット・エンジンへの彼なりのオマージュであるAir Board βは、この体験のために作られたのだろうと、その瞬間に理解する。
八谷による「PostPet」の独自性も、この「かなわぬことを希求する営み」を肯定した、ポジティヴな姿勢のもとに形作られている。デスクトップ上の家に住み私たちのメールを届けてくれる小さな生き物たち。彼ら=ペットたちがたんなるバイナリ・データであるという認識は、実際に彼らが部屋のドアを開けて戻ってきたときの驚きと嬉しさを消すことはない。なぜなら、私たちはマウスで彼らを「撫で」、来た友人のペットを「殴り」、頼みもしないのに「勝手に」誰かの家に遊びに行ってきたのに呆れる(なんで彼じゃなくて彼女んとこに行くのよ?)。この時々に彼らに感じる生々しい感情は、現実そのものだ。八谷が、作品から観客へ誘いをかける重要性をよく知っていると思うのは、こうした触覚的な(ある意味きわめて子供っぽい)要素を必ずどの作品にも取り入れていることから伺い知れる。触ってもらわなければなにもはじまらない、体験してもらわなければ伝わらない。エンタテインメントの分野においては当たり前のこの前提を、なぜいままで美術はないがしろにしてきたのだろう? これは大衆への媚びという次元の問題ではなく、会話を交わす他人同士の暗黙の了解のレベルではないだろうか。目を見て、挨拶すべし。
そもそも、人に体験への欲望を促す、アトラクション的な心配りということでは、八谷の作品は最初から緻密につくられていた。初期の代表作「視聴覚交換マシン」(1993-)は、改良を重ねられて装着性や機能の改良が行われているが、基本的にはペアの体験者が身につける2パーツで構成される。ヘッドマウンテッド・ディスプレイと、アンテナを内在した羽を生やした、リュック型の送信機(ねえ、自分の背中に羽が生えたらと想像したことは? 天使になりたかったことは?)。一対一でお互いの視聴覚をたよりに(自分のそれは奪われたかたちで)コミュニケーションを図ろうとする体験者は、羽から情報を受け渡ししつつ、自分自身を、相手の位置から見つけたときの驚きに、思わず声をあげずにはいられない。この、泉に映った自分に驚くナルシスとは完全に異なった、他者の目を介した奇妙な自己発見は、その他人との会話なくしては果たせないという点で、抑制にも拡張にもなる。またいっぽうで、彼らを眺めるほかの観客が、ねじれた、しかし原初的なコミュニケーションに直面し、飽きずに待ち時間を過ごせるということ。体験者二人がようやくお互いにたどり着き、ふれあったときにあげる笑いを、観客もまた、知らず共有する。
白い羽の生えた天使は中性的な存在ではあるが(とはいえ八谷はこの作品で、「装着したままセックスもできる」ことを前提にしている)、男の子向き、女の子向きと振り幅のある作品をつくってきたことが、八谷の作品を優しく魅力的にしていることも事実だ。Air Boardシリーズと並んで、彼の作品で「少年」的なものに「Light/Depth(1993,1995)」がある。そして彼の作品を見るうえで敏感にならざるを得ないことなのだが、女である私が、この作品で(身体的に)わかることはほんの少しだけなのだ。私は男の子でもなければスケート・ボーダーでもない。ミニランプを滑降するときのスピード感や浮遊感といった身体感覚を私(の体)は知らない――足下のモニターに映し出される、ボーダーの動きで変化する波の映像に助けを借りて、想像することはできても。この悔しさは、幼い頃に軽々と樹から飛び降りる男の子たちに対して抱いた感覚と同じだ。つまりはこういうノスタルジックでかつきわめて身近な、「取り残された」寂しさをも、美術作品に対して抱いてしまえるのだということ。この作品はそこにスケートボーダーが滑っていなくても、ボーダーの人にとっては滑るためのミニランプそのものであろうし、私にとってはミニマリスティックな彫刻に見える。そして実際、その両方をあらかじめ含む物体なのだ。
いっぽう、少女性の強い作品は、ブランコ型の作品「Over The Rainbow」(1995)や「PostPet」(1996-)が挙げられる。「Over The Rainbow」の高さは5m、構想段階では20mだったという。子供のときに友人達と競った「どれだけ高く漕げるか」は、危険と紙一重だったからこそ面白かった。横に七つ並んだブランコの漕ぎ手が全員違う位置に達した瞬間に、七色の虹が見られるという仕掛けは、それがほぼ実現不可能という点で、完全な相互理解の不可能性のメタファーであり、同時に憧れの表象でもある。だが大事なことは、こうした絵空事、雲をつかむことへの私たちの欲求が、ここでは決して否定されないということだ。「Light/Depth」と「Over The Rainbow」の乗り物としての雌雄は綺麗な対照を描く。ともに浮遊感を体験者に提供するのは同じだが、(少なくとも日本では)前者を乗りこなす女性は珍らしがられ、後者に乗って公衆の面前でなんの気兼ねもなく喜びを表現できる男性は少ないだろう。「PostPet」のピンクのテディ・ベアに、「かわいい」と嬌声を上げることを慎むように。私たちはここで制度に縛られていることを苦笑とともに認める。ただし、この少女型の作品群にかぎらず、彼の作品が手触りの良さのなかに残している、予期しない暴力の気配も、体験者は敏感にかぎとる。安全で、可愛らしく、従順なものへ注ぐ愛情であれば、誰がそれを美術作品に求めるだろう。
いくつかの少なくない実体験から、インタラクティヴ・アートという言葉を想起するときに浮かぶのは、先鋭化を旗印に、汎用性のない一元的な理論を、なりふりかまわず作品と呼ぶ――あの操作性の悪さでまず観客の「体験しようとする意志」を阻喪させる代物の数々を作品と呼ぶなら――奇妙な空間、というイメージだ。私は自分の足があるのだから、別に向こうでテクスチュアのがくがくとした町が勝手に走ってくれなくてもいいのだ。識字力はこれでもあるのだから、暗い部屋にひとり残され、延々とわざとむずかしい言葉遣いのテキストが勿体ぶって光りながら流れていくのを読まされても困るのだ。勝手に動き続ける不細工なロボットに触っちゃいけないのなら、犬と遊んでいたほうがいいのだ。「貴方より私のほうが頭がいい」と自慢し続ける人間と、貴方ならどうつきあえますか?
こうした体験に辟易している私が、コントローラの限界に時折げっそりしながらもコンシューマ・テレビ・ゲームに何十時間も没頭できるのはなぜか。数百万のプレイヤーに混じり、日本に冠たるゲームソフトを楽しめるのはなぜか。理由は単純で、優れたゲームは、まずプレイヤーと物語世界とのインターフェイスを最優先に設計されているからだ。あるいは、あることを達成したときに人間が感じる喜び――大げさに言えば自分の可能性が広がった瞬間の快楽――を、プログラムの中に周到に組み込んでいるからだ。
“天にも昇る心地がしたよ”と人は言う。人になにかをしてもらったとき、自分が苦労のすえになにかをなせたとき、陶然とするような景色やものを見たとき、聴いたとき、味わったとき、触ったとき。ふいに訪れるその瞬間は、他人と比較することの不可能な、本人だけのリアリティだ。だが、「見ることは信じること」(1997)でヒツジ(「星の王子様」を思い出そう)という名の赤外線を可視化する小箱の穴越しに、インターネットに集まった見知らぬ人々が残した日記の平易で雑多な言葉を拾ってみれば、その瞬間がその人の数だけあるのを知ることはできる。たくさんの驚きの感覚は、ただひとつの真実をぼんやりと指し示す。人は孤独であり、そして孤独ではない。こんなふうに、日常に埋め込まれ、本人も気に留めることのないリアリティの蓄積が、作品というフィルターで濾され、自らを輝かせる。 性能のいい受信アンテナをもっているのがアーティストなら、送信アンテナ=作品の性能も、さらに磨いてほしいと願う。私たちはそれで、“本当に”雲をつかみ、天にも昇れるのだ。好きな方向へ、好きな高さで、そのアーティストさえも知らない場所に。
1999年10月 真壁佳織 cave@air.linkclub.or.jp
英訳初出:"frieze" ISSUE 50, January・February 2000 pp.58-61
※このテキストは英訳版と細部が異なります。タイトルはfrieze編集部がつけました。
"frieze" website : www.frieze.co.uk
真壁さん、すてきな文章ありがとうございます。(八谷)